CHAPTER4|OTHER LEAGUSE ディナモ・キエフ 

(4−4−2)

○10  ○11

○9
   ○7        ○8   
○6

○2   ○3  ○4   ○5

○1

番号 選手名
1 ショフコフスキー
2 ドミトルリン
3 バスチュク
4 ゴロフコ
5 ルジニー
6 グシン
7 コソフスキー
8 カルダシ
9 ベルケビッチ
10 レブロフ
11 シェフチェンコ
監督 ロバノフスキー

◇科学的なアプローチの先駆者
74 ~ 90年、96 ~ 02年の2度の在任期間で、ディナモ・キエフを欧州屈指の強豪に育て上げたロバノフスキー
・試合中、全く動かなかった姿から「石像」とも呼ばれた名将は、サッカーにスポーツ科学を取り入れた先駆者

ヨーロッパ発祥のサッカー
・数字やデータを重視するアメリカンスポーツとは対照的に一種の「曖昧さ」を許容する側面があり、労働者を 中心に競技が普及していたためアカデミックな研究の対象にもなりづらかった
・サッカーをデータ化する試みは、現在のコンディション管理の分野で、ようやく手がつけられ始めている
  →そういった意味でも70年代にロバノフスキーが行なった科学的なアプローチは画期的だった

ディナモ・キエフの監督就任前から地元の大学の教授と協力関係を結んでいたロバノフスキー
・コンピューターを駆使したデータ分析をサッカーに取り入れた
・主な目的は、データを用いた選手個人の能力測定と、ゲーム中の選手の動きを解析する試合分析のふたつ
  →いずれも、データは詳細に数値化され、客観的な判断材料とされた

サッカーをデータ化する試みは、3つの方向性がある
・?選手の能力の数値化
 ?ゲーム分析
 ?コンディション管理
  →過密日程への対策のため現在は?に注目が集まっているが、ロバノフスキーは?と?に関しても興味深い   アプローチを見せている
・選手獲得の際に単純な運動能力の測定だけでなく、形状記憶能力や動体視力といった小脳のテストも行なって いたという
・また、ゲーム分析に関してもコンピューター・プログラムを用いて、選手ごとのプレーエリアや、選手同士の 相性を判定していたようだ



「時間やスペースが減少していくモダンフットボールに対応するには、ボールが来る前から適切なプレーを選択する必要がある」
・これは当時のロバノフスキーの持論だった
・それを実現するため、彼はアメリカンフットボールのように多数の攻撃パターンを選手にインプットした
ディナモ・キエフの選手らは、ボールが来る前から事前にそれがわかっていたかのように動くため、しばしば 「ロボット」と揶揄された
・攻撃にはいくつかのパターンがあり、選手たちは状況に応じてその中から適切なプレーを選択していく
 手数をかけずに最も効率的に相手ゴールを陥れるにはどうすればいいか?
  →ロバノフスキーがシンプルなカウンターを追求したのは、彼独自の哲学を反映した結果だった

「優れた彫刻家は必要ではないものを取り去るものである」
70年代には4-3-3、80 ~ 90年代には4-4-2と合わせたフォーメーションを採用してきたロバノフスキー
・だが、FWと両サイドにスピードのある選手を配置し、素早くカウンターを狙うコンセプトは不動だった
 そのため、ロバノフスキーはスピード豊かな選手を優先的に発掘し、攻撃の軸に据えている

「近代フットボールでは、ドリブルを140回使うチームは勝つ事が出来ない。30回以内に抑えるチームが最高クラスだ」
・また、ロバノフスキーはドリブルを多用するサッカーを否定している
  →派手なプレーを嫌い、それこそ彫刻家のように自らのサッカーに不必要な要素を削り続けた

◇ロボットサッカーの功罪
1974年にディナモ・キエフの監督に就任以来、ソ連リーグ8回、ソ連カップ6回を獲得
ソ連崩壊後も死去する2002年までにウクライナリーグ5連覇を達成
ソ連代表監督としても1976年モントリオール五輪で銅メダル
・1988年の欧州選手権では準優勝と輝かしい足跡を残した

しかし、彼のアスレチックなサッカーには賛否両論があった
共産主義の匂いがするデータ主義への嫌悪感や、単調なカウンタースタイルがその理由だった
ソ連崩壊後は代表の強化を兼ねてディナモ・キエフに戦力を集中させる”国策”がとられている
 ロバノフスキーは、戦力的に恵まれた国内リーグでも頑なにカウンタースタイルを貫いた
  →このことが地元マスコミには不満だったのである

また、ペレストロイカの到来後、西側諸国への選手流出が進んだ
・だが、彼らの移籍が相次いで失敗に終わった事も間接的にこの名将の評価を下げた要因
・「ディナモの選手は、ディナモでしか通用しない」
 →確かに、彼のサッカーには選手をスポイルする要素が含まれていたことは事実かもしれない
・数値化したデータを重視する選手選考は、逆に言えば”目に見えない才能”を切り捨ててきた事を意味する
 しかし、ウクライナという小国が世界と対等に戦うには、カウンタースタイルが最も現実的な選択だった
  →ロバノフスキーが頑なにカウンターを磨き続けたのは、国内リーグではなく、ヨーロッパでの舞台を想定   してのことだろう


◇晩年の最高傑作
98-99シーズンのCL、ディナモ・キエフは準々決勝でレアル・マドリードに勝利してベスト4に進出
 →グループリーグでは、アーセン・ベンゲルの下で日の出の勢いだったアーセナルを一蹴している

このチームはロバノフスキー晩年の最高傑作だった
・中盤ダイヤモンド型の4-4-2の布陣
・戦術はシェフチェンコ、レブロフの2トップを走らせるカウンターが軸になっている
  →だが、守備時はこの2トップも中盤まで引いて献身的にボールを追いかける
ディナモ・キエフの選手は総じて足腰が強く、1対1の競り合いではまず負けなかった
・90年代後半はDFラインを押し上げ、コンパクトなエリアでのボールの奪い合いが頻発していた時期だけに、 なおさら彼らの力強さが威力を発揮している

チーム全体の運動量も豊富だった
・2トップ任せの単調なカウンターではなく、後方から次々と選手が飛び出す分厚い攻めを見せている
・2トップの「守」から「攻」へ切り替える際の動き出しの速さ
  →それに連動して発動するパターン化された高速カウンター
・守備では、チーム全員が献身的なカバーリングを繰り返す
  →個人よりも規律や調和を重んじるロバノフスキーらしい統制のとれたチームだった

ロバノフスキーのコンピューターサッカーの系譜は現在、スポーツ科学の本場であるアメリカに受け継がれてる・アスリート能力を重視し、パターン化された高速カウンターを磨いている点も共通している
・進化が行き詰まった時、まったく別方向から新たな答えが提示されることは、サッカーに限らずよくある現象
・彼らのアカデミックな研究が、サッカーというスポーツをいかに変化させるのか?
  →今後も注視する必要がありそうだ