辛い現実から逃げたいあなたへ(You Tube)

あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ。
[シェイクスピア]



私たちは長い人生を歩む間に、どうにもならない不愉快な立場に立たされることがたくさんあります。
それはどうにもしようがありません。
しかし、選ぶことはできます。
そういう立場を天命として受け入れ、それに自分を順応させることができるか、あるいは一生を台無しにしてまでも反抗し、神経衰弱になるか、いずれかです。



ここに私の尊敬する哲学者、ウイリアム・ジョーンズの名言があります。
「物事をあるがままの姿で受け入れよ。
起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である」



私の言い方は行く手をさえぎる不幸に対して、ことごとく頭を下げろと主張しているように聞こえるでしょうか?
断じてそうではありません!
それでは単なる運命論になるではありませんか。
事態を好転させるチャンスがある限り戦うべきです!
けれども、常識で判断してもはや万事休すとなれば「悪あがきをしたり逆転を望んだりしない」ことが正気の沙汰というものです。



柔道の達人達は「柳のように曲がれ、樫のように抵抗するな」と教えています。
人生のショックを吸収せずに抵抗したらどうなるでしょうか?
「柳のように身を曲げる」ことを拒み、樫のように抵抗するとしたら?
答えは明らかです。
次々に内面的な葛藤が生じるでしょう。
不安になり、緊張し、イライラし、神経衰弱になるに違いありません。
そしてなおも過酷な現実の世界を拒み、自分自身で作り上げた夢の世界に逃避するならば、私たちは狂人と化してしまうでしょう。



ソクレテスに好意的だった牢番は毒杯をすすめながら、こう言いました。
「もはや動かしがたい事態に対して深く従われますように」
この言葉は、キリスト生誕より399年も前に言われたものです。
しかし、悩みに満ちた今日の世界では、過去のいかなる時代にもましてこの言葉を必要としています。



ある朝のこと、私たちのクラスが化学実験室に集まった時、すでにポール・ブランドワイン先生がおられて先生の机の端にはミルクのびんが置いてありました。
私たちは席についてから、そのミルクをながめてはいったい衛生学の授業とミルクとどんな関連があるのだろうと考えておりました。
その時、先生は突如として立ち上がり、ミルクのびんを流し台にガチャンと投げ込むとこう叫びました。
「こぼれたミルクを悔やんでも無駄だよ!」
博士は私たちを流し台のところに呼んで、びんの破片を見せました。
「いいかね、よく見ておくのだよ。
君たちにこの教訓を一生の間、覚えていてほしいのだ。
あのミルクは配水管の中へ流れてしまった。
君たちがいくら騒ごうと悔やもうと、一滴も取りもどすことはできない」
もう少し慎重な配慮をすれば、あのミルクをこぼさずにすんだかもしれない。
けれども、もう手遅れなのだ。
私たちにできるのは、あのミルクを帳消しにしてしまって忘れること、そして次の問題に取りかかることなのだ。



皆さんの中で、ノコギリでオガクズを挽いたことのある人は、何人いるだろうか?
もちろん、オガクズを挽くことなどできるわけがありません!
オガクズは挽いたカスなのです。
過去についても、これと同じことが言えましょう。
すでに終わったことについてクヨクヨと悩むのは、ちょうどオガクズを挽こうとしているだけなのです。
だから、涙を無駄に流すのはやめましょう。
もちろん、私たちは種々の失策や愚行の責めを負わねばなりません。
しかし、それがどうしたというのです?
だれだって同じではありませんか!
ナポレオンでさえ、彼の指揮した大きな戦闘の3分の1は負け戦だったのです。
私たちの打撃成績は、たぶんナポレオンに劣るとは思えませんが、どうでしょう。
いずれにしても、一国の精鋭のすべてを動員したところで過去を元どおりに返すことはできません。



賢い人たちは座ったまま、損失を嘆いたりはしない。
元気よくその損害を償う方法を探すのだ。
[シェイクスピア]